憲法9条はアメリカの押し付けを装った、昭和天皇の決断

憲法9条はアメリカの押し付けを装った、昭和天皇の決断

憲法9条は、今回も改憲の目玉にされ、何かにつけアメリカが押し付けた憲法の代名詞のように言われます。

当時、天皇存続を希望していたGHQのマッカーサーと、天皇制廃止を主張していた極東委員会(アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド、インド、フィリピン)が対立していて、極東委員会側に天皇存続を認めさせるために、幣原首相が滑り込ませたものだと言われていました。

この話を聞いた時、憲法の話を幣原首相だけで決められるはずはなく、絶対に昭和天皇の許可かなんらかの指示があったはずだと思っていましたが、今回、調べてみたら、こんなサイトが見つかりました。

憲法9条は昭和天皇の決断

幣原喜重郎元首相が語った
日本国憲法 – 戦争放棄条項等の生まれた事情について

https://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html

一部を以下に引用

幣原喜重郎しではらきじゅうろう 元首相が、亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情などについて語っている。

幣原は、『口外無用』として平野(平野三郎衆議院議員)に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年・昭和39年(今から58年前)の2月に憲法調査会[4]事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。

これが、いわゆる「平野文書」で、現在は国立国会図書館憲政資料室に保管されている。

平野は、この文書を書いた経緯を、自身の著書『平和憲法の水源 – 昭和天皇の決断』(1993年・平成5年刊)で次のように記している。

憲法調査会の審議が大詰めを迎えたある日、(中略)高柳会長[5]から面会の申し込みがあった。(中略)
  高柳会長は重大な決意を込めて言った。
「私はたまたま憲法の番人の役目を仰せつかった。私は番人に徹する積もりです。私は少なくとも第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っている。自衛権は本来的にあるという意見があるが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥に戻ってしまう」

(5.高柳賢三(たかやなぎけんぞう)1887年(明治20年)- 1967年(昭和42年)
大正・昭和期の代表的英米法学者として知られ、東京裁判での日本側弁護団の一人。内閣に設置された憲法調査会会長も務めた。新憲法擁護の基本線を踏まえながら自衛権などで政府見解と憲法を如何に擦り合わせるかに力を振るった。(出典:Wikipedia))

 高柳会長の話は、さらに天皇とマッカーサーに及んだ。
「(中略)天皇は何度も元帥を訪問されている。(中略)天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。(中略)天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。(中略)天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」

 最後に高柳会長は、「ところで、あんた、幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われた。
 これは困った。たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料はなにもない。私はお断りした。
 それに対し、博士は、
「いや、あなたが幣原さんの秘書だったことは確かな事実だ。秘書なら話を聞く機会があって当然である。だからあなたの話なら、根拠がない訳ではない。実は調査会もそろそろ結論を出さねばならない。問題は、米国製か、日本製かということだが、幸い日本製だというマッカーサーの証言がある。しかし、アメリカの話である。どうしても日本側の証拠が必要だが、それがないので困っている。ついてはぜひ、あんたお願いします」
 というのであった。
 そこで、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』という報告書を私は提出した。 

【平野三郎の憲法調査会への『報告書』による、幣原喜重郎元首相の主な言】

(憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています)
 そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、〈中略〉憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。〈中略〉幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

 世界の共通の敵は戦争それ自体である。

驚くのは、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』の文書は、1964年・昭和39年の2月に憲法調査会事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択されいるということ。

昭和天皇が望んでいたこと、マッカーサーに押しつけられた形をとったことまで話しているのに、この件が何の検証もされないまま、アメリカから押し付けられた憲法だという表現がずっと続いている。

日本を戦争できない国にしたらアメリカは儲からない

ここからは、専門家には程遠い主婦がテレビや本やネットから知った知識で語っていますので、「そういう考え方もあるのだな」くらいに捉えて読んでいただけるとありがたいです。

私が、戦争放棄を入れたのが昭和天皇だと信じられる理由は、戦争できない国になったらアメリカ(を代表する国際金融家)が儲からないので彼らが積極的にその案を出すとは思えないこと。

この憲法が作成されたときの日本は主権国家でも独立国家でもなかった占領下なのだから、昭和天皇が発案者であろうが、幣原首相が何を話そうが関係ないと考える人もいます。

アメリカは日本が2度とアメリカに逆らわないように日本を戦争のできない国にした、ともよく言われます。

実際この時期、GHQは、原爆の残虐さを非難した鳩山一郎の談話を掲載したため朝日新聞を48時間の発行停止にしたり(昭和二十年九月十八日)、進駐軍兵士の暴行を非難した石橋湛山の東洋経済新報が一部残らず押収されたりしている(昭和二十年九月二十九日)。

ほかにも公職追放で(アメリカにとっての)不適格な教員の排除に乗り出した。
『教職員適格審査の制度化』
全国130万の小中学校教員、大学教授等を対象に審査し、日本の戦争を肯定する者、積極的に戦争に加担した者、戦後の自由と民主主義を受け入れない者に、除籍を求めた。
そしてそれらの教員の血縁者3親等まで、教員としての就職を禁止したりもしている。
さらにGHQは、教育界のトップ人事を一新した。
完璧なGHQへのイエスマンを採用。
東大総長=南原繁、文部大臣=田中耕太郎、両者とも敬虔なキリスト教信者で、白人への忠誠心があった。
ほかにも、GHQは連合国側にとって都合の悪い本を焚書したり、日本人の手紙を検閲したりもしている。
そういう意味ではGHQが背後にいる中で作られた憲法は日本にとっていいものであるはずがないーと考えるのが普通です。

敗戦時、実は大金持ちだった天皇

ですが、日本人に隠されていることとして公式の歴史には出てきませんが、この時期は同時に天皇の隠匿している巨大マネーのありかについても、GHQは必死で探している時でもありました。
敗戦時、日本国民には隠されていますが、実は天皇家の資産は莫大でした。
天皇が戦争責任を問われなかった大きな理由は本当はこのマネーにあったのです。
そういう意味では、日本は敗戦はしているけれど、天皇の立場は弱いものではなかったのです。
戦争放棄の憲法はそういう中で入れられたものでした。
しかも戦争放棄はアメリカに都合がいいかと言えばむしろ逆でしょう。

アメリカ(国際金融家)は戦争で儲けているのです。それを考えたら、日本を戦争のできない国にするのはあちら側にとってソンなのです。

現に、国際金融家に取り込まれた明治の憲法では、天皇を中心とした戦争のしやすい国家になっていて、実際戦争ばかりしていた(させられていた)。

これで儲けていたのは、もちろん日本(の上層部)でもあったけれど、戦争のたびに高い利息をつけて日本にお金を貸していたあちら系の金融機関、武器商人たちもどれほど儲けたかわからない。

明治から天皇はイギリス(国際金融家、フリーメーソン)の仲間になってしまった。

だからこそ、日本を今後戦争に巻き込ませないために、天皇は、戦争放棄を憲法に入れたのではないか。

上皇陛下の退位は憲法改正阻止のためだった

もう一つ、「戦争放棄」を入れたのが昭和天皇であることが信じられる理由は、上皇陛下の日本国憲法への思い入れにある。

昔ネトウヨ気味だった頃、今の上皇陛下が何かにつけ、「日本国憲法を守り・・」と仰ることにため息をついていました。

占領下のGHQ憲法を大事にしている天皇は情けないとも思っていました。

そして一番、上皇が今の憲法を守りたい本気を感じたのが退位の表明の時。

退位のお言葉が出された時は、衆院ともども憲法改正の発議ができる3分の2の議席を確保できた時で、さぁ改憲と、そちらに動き出すかに思えた時だったのです。

当時の週刊誌はこのように書いています。

「NHKが皇室関係の報道をする場合、どんな情報であっても、宮内庁職員から必ず裏を取っている。

でなければ、報道しない。今回、その裏を取らせ、OKを出したのは、山本次長とは別の、陛下に近い宮内庁幹部といわれている。

彼には憲法改正の流れを止めたいという意図があったのです」

民放の政治部幹部が続ける。

「いわゆる改憲勢力は参院選で大勝し、衆院ともども憲法改正の発議ができる3分の2の議席を確保しました。

憲法改正が現実味を帯びるなか、政治的な発言ができない陛下が安倍内閣に『沈黙の苦言』を呈したということです。

正式に天皇陛下のご意思が示されれば、国会は皇室典範の改正を優先させなければならない。憲法改正論議など吹っ飛びます。この生前退位が明るみになり、官邸には衝撃が走っています」

かねて平和を祈念してこられた陛下の「無言のメッセージ」だったのだろうか。

第24回参議院議員選挙は7月10日に投開票され、新聞各社、NHKなどの報道によると、自民党は改選前から6議席上積みとなる56議席を獲得し大勝。連立与党の公明党は今回、改選前より5議席伸ばし、14議席を獲得した。自公合わせた獲得議席は70で、安倍晋三首相が目標としていた「与党で改選議席の過半数」(61)を上回った。
自公で改選議席の過半数占める。
衆院はすでに与党だけで3分の2を超えており、衆参両院で憲法改正案の発議が可能な改憲勢力が形成された。
基本的人権の尊重や法の下の平等、言論の自由、信教の自由などが、けっして右派の言うような「現憲法は米国の押しつけ」などではないことを示唆したのだ。

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
 日本国憲法を「平和と民主主義を守るべき大切なもの」と最大限に評価する明確な“護憲発言”だった。しかも、今上天皇はわざわざ「知日派の米国人の協力」に言及した。明らかに、安倍首相ら改憲右派ががなりたてる“押し付け憲法論”への反論の色彩を帯びていた。

当時は改憲に賛成だったので、どうして?とびっくりしたのですが、今は本当によくぞ止めてくださったと思う。

それと、この時期にはもうコロナのことも次の戦争のことが陛下の耳には入っていたと思います。

天皇は担がれて戦争することを拒否したかったのだと思う。

(*ちなみにアーミテージとジョセフナイが次の戦争について話をしているそうです。次の戦争は東シナ海の資源をめぐって、アメリカが日中を争わせ、日米安保を縦に中国と日本の戦争にアメリカが加担する。その後アメリカは徐々に手を引き、日本と中国だけの戦争にして、アメリカが仲介に入ることにして東シナ海の主導権をアメリカが取るーという計画のようです。神王TVから

明治憲法で国民は幸せだったのか?

ところで、下は、かなり前に日本国憲法ができるまでのドキュメントをNHKが報道していて、その時のメモに、今回調べたことを追加して時系列でまとめたものです。

GHQが押し付けてきたというわりに、草案を日本側が作ってくるのを待っている。

これは・・と突き返しているのは日本側があくまでも「天皇を中心にした国体」を手放さないため。

逆に「国民主権」を明記しろと極東委員会から念押しされていたり、日本庶民としてはありがたい圧力をいただいている形になっている。

国民主権、言論の自由を享受してきた幸せな時代を生きたせいか、日本側の主張がもし通っていたらと考えると、首を傾げてしまうところが多い。

補足箇所はこちらから引用しています。

https://www.ndl.go.jp/constitution/ronten/01ronten.html

1945(昭和20)年8月30日 マッカーサー日本へ
1945(昭和20)年9月27日 昭和天皇と会う

GHQ エスマン氏の証言
明治憲法は改正でなく解体する
非軍事化と民主化を日本が作ることを望んでいた。

1945(昭和20)年10月11日、 総理になったばかりの幣原喜重郎首相とマッカーサーが会う。
マッカーサー、憲法改正を示唆する。

マッカーサーは、日本側が自主的に憲法改正を進めることを待つという姿勢

松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会の発足が決定、憲法改正作業は、近衛を中心とする内大臣府と政府の機関である憲法問題調査委員会の両者で進められることになった。

1945(昭和20)年10月13日
幣原首相、憲法問題調査委員会を作る。憲法改正が必要かどうかを考える。
松本烝治国務大臣 天皇を中心とした国家体制、国体護持を最優先課題とした。天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。
これに対して、マッカーサーは言論の自由化をすすめ、天皇に対する議論を解禁する。
国体維持を主張する保守から、天皇制廃止の共産党までの議論が巻き上がる。
マッカーサー、日本人の天皇に対する意見を見守る。

1945(昭和20)年12月16日〜

モスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが決まる

これにより、対日占領管理方式が大幅に変更されることになった。

今までは、GHQが日本を統治していたが、GHQの上に極東委員会が来ることになった。

極東委員会は天皇制に厳しかった。

戦争中の天皇の役割に批判的。天皇は日本の軍隊と密接な関係があると思っていた。天皇を戦犯として裁判にかけるべきだと言っていた。

極東委員会の活動は1946年2月26日からに決まった。

1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた

1946年1月 幣原首相とマッカーサーの話し合い。

幣原首相)生きている間にどうしても天皇制を維持したいと思っている。

マッカーサー)占領するのに、一滴の血も流さなかったのは天皇の協力のためなので、できるだけ努力する。

幣原)世界から信用をなくしてしまった日本にとって戦争を放棄するということをはっきりと世界にいうことが、唯一の誇りとなるのではないだろうか。

マッカーサー)天皇を訴追すれば、混乱が生じ100万の軍隊が必要になる。天皇は占領政策に必要。
極東委員会ができれば、天皇は厳しくなる。
早く、憲法草案を出すように。

1946年2月8日、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された。

1946年2月13日、外務大臣官邸で、ホイットニーから松本烝治委員長より提出されていた日本側の憲法草案は自由と民主主義の憲法草案として受け入れることが不可能と拒否される。

その場で、GHQの憲法草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。

1946年2月22日

幣原首相は天皇制を守るためにGHQ草案を受け入れる。
政府案の起草は、極秘で進められた。法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長はこの後、GHQと細かなすり合わせをする。
天皇の権利が小さく見せるようにしたいGHQ、大きくしたいのが日本側。
女性の人権、この条文を削るように日本側が主張。これは日本の歴史文化に合わないと言ったのが女性の権利。反対の強さにびっくりした。
ケーディスは女性の権利についてはベアテさん(22歳のオーストラリア出身のユダヤ人女性,5歳から15歳まで日本で暮らしていた。女性の人権についての条文を書いた)も望んでいるといったら、佐藤達夫第一部長はびっくりした。そしてパスした。

1946年3月5日 、午後4時、GHQ草案に沿う日本政府案の憲法草案が完成
ホイットニー将軍が出てきてありがとうと言った。

世界に戦争放棄の宣言を憲法中に明記し、世界唯一の新憲法を起草せんことを命じているものなり。
主権在民、永遠に戦争の放棄、天皇は国民統合の象徴

1946年3月6日 マッカーサー「憲法改正草案要綱」支持声明発表

反発したのは極東委員会。日本の憲法改正に関する権限を有するのは極東委員会だったはずと。

米国政府にとってもマッカーサーの「憲法改正草案要綱」の支持声明は寝耳に水。

マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった米国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。

極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。

ワシントンの極東委員会本部は、天皇制を保持すると言ったので、大いに驚いた。極東委員会の審議を問わないで、マッカーサーが勝手に決めた。
極東委員会の11カ国の国が日本の憲法について議論していた。

1946年3月20日、極東委員会、マッカーサーに対し、憲法草案に対する極東委員会の最終審査権の留保、総選挙の延期などを要求。

新憲法を承認するのはあくまでも極東委員会。
オーストラリア委員
民主的な条件
自由に議論

1946年3月29日、マッカーサー、極東委員会の総選挙延期要求に対し拒否の返電。

1946年4月10日、女性にも初めて選挙権が与えられ選挙。政府の憲法改正班は

4月22日、幣原総理は退陣、吉田茂首相が誕生。

7月2日極東委員会、新しい憲法を満たすべき基本的なこととして、「日本の新憲法についての基本原則」を決定(主権在民、天皇制の廃止または民主的改革、閣僚のシビリアン要件など)。

極東委員会は、新しい憲法を満たすべき基本的なこととして、主権は国民にあることを認めなければいけない、「国民主権」。
これはすぐにマッカーサーに伝えられる。

主権在民、天皇は象徴が決まる。
ソビエトは軍人の復活を防ぐため、大臣は文民だとすることの追加を求める。

国民の総意が必要と成っていたのを、不明確だといい、主権とするようにケーディスが言う。主権が国民になることを明文化してほしい。金森徳次郎は、それを言われて辞職。主権在民といえばソ連からケチをつけられる、(ケーディス)。極東委員会が、何かを言うとすれば天皇制の否定、主権在民について。

金森徳次郎 WIKI

1946年6月、吉田茂内閣の憲法担当国務大臣に就任。帝国議会における大日本帝国憲法の改正審議で、憲法に関する政府答弁を行った。特に有名な答弁としては国体についてのものがある。金森は国体を「天皇を憧れの中心として、心の繋がりを持って統合している国家」であると答弁した。これにより国体は変化していないということを強弁し国会を乗り切ることに成功した。

7月6日、統合参謀本部、7月2日極東委員会決定をマッカーサーに指令(マッカーサー、同決定の発表を抑えるよう要請)。

7月16日 衆議院本会議、全会一致でマッカーサーに対する感謝決議採択。

上のどの時点なのか、日本国憲法草案作成の実務責任者だったチャールズ・ケーディス氏は日本側の自衛戦争さえ放棄すると書かれた前文を削除したことも書かなければいけません。

『一国が外国から侵略を受けてもなお自国を防衛できないことはありえない』と。

その代わり変えたのは、武力による威嚇、または武力の行使をも放棄すると侵略戦争の否定を明確化した。

天皇に対する意識がまるで違う戦前

明治憲法の第3条

「『天皇は神聖にして侵すべからず』(憲法第3条)。天皇は如何なる理由によっても退位されることはない。天皇はその主権の行使において法の制限を踏み越えたという責任を問われることはない。その主権行使の全ての責任は政府閣僚その他の諸機関に期する。したがっていかなる批判も、その主権諸機構に対するもののほかには、天皇に対してこれを為すことはできない。法律は原則として、就中、刑法は、天皇には適用されない。なぜならば法廷は天皇自身を裁くことはできず、天皇はいかなる法律にも拘束されないからである

『日本年鑑1944-45年』117頁 日本政府出資団体たる日本外事協会発行

当時は上のような憲法と天皇に対する不敬罪があり、天皇が統治権を総覧するというのが明治憲法の基本原則だった時代。

バーガミニの「天皇の陰謀」の中で、当時の日本兵とバーガミニの会話の中で、その日本兵が「自分は天皇の臣民だから天皇のために死ななければいけない」と答えているところがあって、すごいなと思ったのですが、今となっては、この時代の日本人の天皇への思いはカルトに近いものを感じてしまいます。

上の憲法にもあるようなあまりに神格化されたもので、当時に戻りたいとは少しも思いません。

これは天皇も同じなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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